世界の記述

タイトルはマルコポーロより。旅行を主とした日本と世界に関するブログです。たまに政治・経済もあり。

ユダヤ人を救った杉原千畝とリトアニア


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リトアニアはカウナス。リトアニアとはバルト3国の一つで、一番南に位置する国です。高校時代、バルト3国の区別がつかなかった時に北から「エ・ラ・リ」と覚えました。これは便利ですね。余談でした。

 

リトアニアは1918年から独立をしていますが、1940年に旧ソ連に編入されてしまう歴史があり、その期間ここカウナスに首都が置かれていました。ソ連からの独立後はビリニュスへ遷都します。そして、このカウナスの街で日本人に馴染み深いのは駐リトアニア大使の杉原千畝氏の歴史です。

 

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(旧日本大使館

 

慈善団体などの寄付により、このように今は「杉原記念館」となっております。写真にも命のヴィザと記載されている記念碑がありますが、杉原千畝さんはナチスの迫害から逃れるユダヤ人6000名以上をここで救ったことで、東洋のシンドラーとも呼ばれている方です。

 

僕もこのことまでは知っていましたが、具体的にユダヤ人の歩んだ道を博物館の方に質問しつつ確認しました。スタッフは日本人ではないので、英語かリトアニア語になると思いますが、最初に少し古めの日本語のビデオを見て歴史をおさらいします。そして、展示コーナーへ。

 

1.歴史的背景

 

1930年代からナチスユダヤ人迫害が表立ってきます。そんな中、ポーランドに逃れるユダヤ人や元々ポーランドに住んでいるユダヤ系の人々が多くいました。そのポーランド第二次世界大戦勃発と共にナチスソ連の領土分割に遭い、多くのユダヤ人がナチスの迫害を恐れ、隣国のリトアニアに逃げます。その当時、杉原氏は駐リトアニア大使ということでカウナスに赴任していました。

 

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ユダヤ人のポーランドパスポート)

 

2.オランダ領キュラソー島への逃亡

 

彼らの避難先候補であったアメリカやパレスチナ(イギリス)は殆ど入国を彼らに許可できなかったが、オランダメーカーのフィリップスで働くオランダ人の尽力の下、オランダ大使が大胆にも多くの人にビザ発給を許可をしました。その滞在先とは、当時オランダ領であったカリブ海キュラソー島でした。

 

このオランダ人の勇気ある行動に、数年前にオランダ王室もこの杉原記念館を訪れています。この記念館にフィリップスから寄付されたテレビがあったことも印象的でした。

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3.ソ連への併合によりシベリアを抜け日本へ

 

1940年にソ連リトアニアを併合すると、各国大使館は閉鎖に追い込まれますが、中でもまだ閉鎖していなかった日本大使館ユダヤ人が通過ビザ発行を求めて大勢やってきました。彼らは日本を経由してアメリカ、パレスチナそしてオランダ島キュラソー島を目指していたのです。

 

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1940年リトアニアソ連に編入されたためにビザなしでシベリア横断が可能なため、果てのウラジオストクまで行き日本を経由することで目的地へ目指すことになりました。日本の通過ビザで滞在できる期間は10日ほど。もちろん最終滞在先のビザがないユダヤ人も含まれていたので、外務省は杉原氏に忠告をしていたそうです。

 

まだ当時は日本とオランダは戦争状態になかったので、オランダ大使に杉原氏が「ビザの発給に対して我々の通貨ビザの発行が間に合わず大量に大使館前に人が待っているのだが・・」などと言うやり取りもあったとか。多い時は3000名も並んでいたようです。

 

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杉原氏はユダヤ人の命を助けるべく通過ビザを発行し続け、立ち退く瞬間いや電車でカウナス駅を離れる瞬間までずっと発行し続け、発行したをパスポートを車窓から投げ捨てる程だったと言います。電車の中ではソ連の警察などから杉原氏を守るためにユダヤ人達が杉原氏を囲ったとか。こうしてユダヤ人たちのお礼と悲しみの声を聞きながら杉原氏は次の赴任先であるベルリンへ移動します。

 

そうしてユダヤ人である彼らはシベリア鉄道に乗りウラジオストクを目指します。シベリア鉄道の中では警察により資産を没収されるユダヤ人がいるなど、無事にロシアを横断すること、目的地にたどり着くことは容易ではありませんでした。

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ウラジオストク駅とウラジオストク港)

 

ウラジオストクから舞鶴港に到着し、彼らは神戸のユダヤコミュニティと接触後、アメリカやパレスチナなどに渡り、滞在先のビザがなく日本での通過ビザの有効期限が切れてしまうユダヤ人達はビザなしで行くことができる日本人租界がある上海へ終戦まで逃れることになります。太平洋戦争が集結し、日本とアメリカの国交が回復した後はアメリカなどに多くが渡ります。

 

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ユダヤ人の日本からの渡航先)

 

世界中が戦争状態にあったので、日本に辿り着いたものの日本とアメリカが戦争状態になったりと、国際情勢が常に動く中で移動するのも大変であったことと思います。結果6000名以上が救われ、彼らのドラマは子孫達にも語り継がれているようです。

 

僕が中国で知り合ったリトアニアの友人はこの歴史を知らなかったのを見ると、リトアニアというよりもユダヤ系の人に語り継がれているのでしょうか。いずれにしても日本人としては先人の偉業を知っておくのは良いかもしれません。ちなみに、この記念館のウェルカムノートを見ると、日本人が毎日のように来ている観光スポットのようでした。現在、唐沢寿明さん主演で杉原千畝氏の映画が撮影されているとか。

 

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リトアニアの杉原一家)

 

RYOJI

 

六千人の命を救え!外交官・杉原千畝 (PHP心のノンフィクション)

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