No.349:ウユニ塩湖(ボリビア)にて
こんにちは。先週に引き続き水曜日は人との出会いを含めた旅コラムを書いていこうと思います。今週は先週のウユニの続きということで、ボリビアの観光名所のウユニ塩湖についてです。
インターネットのおかげで既存のものが再確認される世の中だが、このウユニ塩湖の認知度もここ5年で広がった感じがある。僕はそんなウユニ塩湖にウユニの町から現地ツアーの車で運んでもらって行った。行ったのは5年以上前だが、当時でも日本人はかなりいた。
旅行者はウユニの町で各々ツアーを組んで車でウユニ塩湖まで連れて行ってもらう。僕はイスラエルのカップルと日本人夫婦と日本人の写真家とバックパッカーのおばさんという面子で行くのであった。なぜか不機嫌そうだったイスラエル人の女性は、ウユニ塩湖の絶景を見ると機嫌が良くなっていた。
僕たち日本人全員は塩のホテルと言う、ウユニ塩湖上に立つ塩でできたホテルに泊まることになるので、終日このウユニ塩湖を満喫できる。そして、塩のホテルに到着。
塩のホテルは今は水が完備されているなどまともなホテルになっているらしいが、この当時は電気もガスも水道もない。ただ便利になると自然が心配だったりもするが。ウユニ塩湖はリチウムが豊富なので、いずれ外国人投資家も参入していくるのだろうと当時漠然と思っていたのを書いていて思い出す。
こちらは塩でできたホテルの内部。塩でできたテーブルと椅子に座り、ドライバーが持ってきた軽食と他日本人やブラジル人からもらったお菓子を食べる。ブラジル人女性2人を除いて、全員が日本人のため日本語が飛び交う。ただブラジル人の女性2人は日本語をマネしたりとノリが良かった。
早速、外に出てウユニ塩湖を満喫する。ただサンダルを旅行代理店に置き忘れてしまって、足が痛かった。塩が刺さる・・。
しかし、どこを撮っても絵になる風景。とても感動した。雨季なので雨が降る可能性もあったが天気には恵まれて、眩しい太陽と反射する水面という神秘的な風景で包まれていく。
そして、夕暮れのウユニ塩湖。まるで絵画のようだった。一人見とれて、また音も全くせず静かで、ゆるやかに時が流れる。
世界のことは情報としては聞いていて知ったかしている部分はあったが、この時に初めて南米に行ったというのもあって、遠い国に来ているのを改めて実感し、やっとこういう景色に出会えたのか・・と、とても感動したのを覚えている。
日が沈み塩のホテルへ戻る。夜は電気が通っていないので、ロウソクの光で灯す。そんな中で日本人の仲間と弾き語りをして歌をうたう。
そして、旅行代理店のミスでまさかの僕のベッドがないことを知る。マジかよ~・・と思っていると一緒にここに来た日本人夫婦が一つ使って良いよと言ってくれる。彼らは本当によくしてくれた。。ウユニの町でシャワーも貸してくれたり。なので、帰国後に手紙を書いてお礼をした。
朝日を見て昼まで再びウユニ塩湖を満喫する。潮のホテルの近くには旅行客の出身国旗が色々と刺さっていたので、僕は日の丸を振り回しながら、ウユニ塩湖を闊歩する。すると日本人高齢者の観光客が来ていたので、彼らから反応をもらう。
そんな形で時間を過ごしながら、昼飯と同時にやってくる旅行代理店のドライバーの迎えを待つ。そして、アルゼンチン人達と一緒に車に乗ってウユニの町へ引き返すことに。
ウユニの町に着くとベッドを貸してくれた日本人夫婦と再会し、ホテルのシャワーを浴びさせてくれて、再びラパスに戻る夜行バスを待つのだった。ウユニ行きのバスのチケットを手配している間に、塩湖上でも少し話した日本人の学生2人と会って仲良くなったので、一緒にご飯を食べる。ウユニの町は意外と栄えていることを知る。
そして夜になり、行きと同じようにトラブルが起きそうな夜行バスに乗って再びラパスを目指し、北上するのであった。案の定、途中でタイヤが水にはまり男達でバスを押す一幕もあった。ただ行きよりも早く、帰りは12時間くらいでラパスのバスターミナルに着いたように思う。そして、次にラパスから目指すはマチュピチュ。
振り返るとウユニ塩湖は人生の中で特に印象的な所だった。また旅は人生の節目という感覚で思い出させてくれる所がある。日本を語る時に戦前、戦後みたいな括りがあるように、自分の人生の中でウユニ前ウユニ後みたいな感じで。そういった場所に行くと本当に生きた心地がするものである。つまり、このウユニ塩湖も死ぬまでに行くべき所だったと思っていたように思う。
つづく
RYOJI