世界の記述

タイトルはマルコポーロより。旅行を主とした日本と世界に関するブログです。たまに政治・経済もあり。

世界史の魅力~楚漢戦争~


Bookmarks of 項羽と劉邦
Peachykeen103

 

こんにちは。皆さんクリスマスいかがお過ごしでしょうか。僕は今日、世界史関連の小さな仕事をしていました。僕は世界史が好きで、学生時代には出版社で世界史問題の解答と解説の作成をするという仕事を他の学生とチームを組んで行っていました。

 

それは受験用の問題に対する仕事なのでバイトは学歴社会でしたが、僕はその中で大学の偏差値で測ると一番下で、自分の大学よりも偏差値の高い早稲田や慶応用の問題を解いて解説したりする矛盾がありました(笑)しかし、センター試験や模試などで満点を取ったというのを売りにして働かせてもらっていました。

 

そのような流れで、会社は違いますが少しだけ何年かぶりに世界史の問題を解いて解説を作成していました。すると忘れかけていた世界史の知識がバーッと頭の中に戻り、脳が満足したので今日はそんな世界史の魅力の1つを語っていきたいと思います。

 

僕は50ヶ国程旅をしていて旅が好きな方ですが、その理由の一つとして世界史に興味を持っていたことが大きいと思っています。特に中国史との出会いが大きいです。学生時代は野球部の練習の帰りに、一番上の画像である横山光輝氏のマンガ「項羽と劉邦」を読んだりしていました。そして、秦の滅亡から楚漢対立までの歴史小説を自分でも書いていました。笑

 

その「項羽と劉邦」を知ったきっかけは、もちろん!あの大ヒットセラー横山光輝氏の「三国志」です。僕はあのマンガが連載終了した86年以降の生まれですが、兄が持っていたので読んでいました。今の未成年はどうかわかりませんが、昭和生まれの人は横山光輝氏の三国志は男性なら多くの人が知っていると思います。

 

三国志については、僕は中国の無錫にある三国志のテーマパークまで行ったので(笑)、また別の機会に想いを書きますが、世界の旅行は歴史を知っているか知らないかで見方が全然変わるので、おすすめです。なぜ、この遺跡は有名なのか…など事前に知っておくと面白いですね!

 

そんな国史に魅了された理由としては、政治体制の変遷が日本と違う所、中国史に詳しい日本人学者が多いため文献が手に入りやすかった、司馬遼太郎さんや陳舜臣さんなどの優れた小説を読める環境にあった、そして日本は中国の文明に影響を受けていた過去があり気になっていたからでした。

 

最初に書いた政治体制の変遷が違うというのは、日本は天皇家を下に基本的な体制が続いていますが、中国は内部で争いが起きては根本から政治体制が変わるという歴史を繰り返している所です。いわゆるモンゴルなどの異民族の支配を受けているという所も日本にはない歴史です。(漢民族中華思想という意識はいつ生まれたかは不明ですが)

 

こんな中国の大地を初めて統一したとされるのが秦の始皇帝と呼ばれる男でした。そして、この中国を統一した秦の圧政により立ち上がり、新たに帝国を作り中国の基礎を作った漢の国が天下を取るまでの歴史が個人的にとても好きなので少し説明していきます。

 

秦の始皇帝は紀元前3世紀まで続いた中国戦国時代の国々を統一し中国に中央集権体制を築いて、兵馬俑(下記画像)や地下宮殿、匈奴という北方の遊牧民からの侵入を防ぐために万里の長城を造るなど自らの権威を大いに示した皇帝でした。

 

Chine 中国 - Xian 西安
Thierry Beauvir

 

しかし、彼の強い中央集権化の流れが各地で反乱(陳勝呉広の乱)を招きます。そんな混乱した中国に現れたのが劉邦という男と、楚の将軍項羽という男でした。

 

不老不死を目指していた秦の始皇帝でしたが50近くで亡くなり、趙高という宦官などの陰謀により秦の政治はますまず悪化していきます。(「馬鹿」という言葉が生まれたのも、この趙高が馬だと言って鹿を連れてきて、鹿と正直に言った群臣達を処刑したエピソードから来ています。)

 

始皇帝亡き後の権力を牛耳っていた趙高はやがて処刑され、その時の皇帝は押し寄せる劉邦率いる漢軍を目の前に降伏します。こうして、秦が天下を取ったわずか十数年の時代が終わります。そして、この漢は、秦の混乱期に立ち上がった楚と天下を争うことになります。その紀元前206年から202年までという、わずか5年間の楚漢戦争が「項羽と劉邦」という歴史です。

 

人望があり才能ある者達をまとめることができ勝ち進んでいく劉邦と、力があるにも関わらず人が付いてこなかった項羽の対照的な覇者同士の争いがとてもドラマチックな所が魅力の一つです。

 

例えば、項羽劉邦との戦いの中で韓信という武将を楚から漢に逃がしてしまい、逆に項羽は彼の作戦に負けてしまうという優秀な人材を見抜けない男でした。韓信は、背水の陣という言葉を生んだことでお馴染みの常勝将軍でした。

 

そんな項羽にも愛し、愛された虞美人という女性がいて、楚が垓下の戦いで四面楚歌(ここで漢軍が懐かしい故郷の楚の歌を四方からうたわせることで、楚軍に降伏を求めた作戦が語源)の中で敗戦が濃厚になると、彼女に向けて別れの歌をうたいます。

 

力は山を抜き、気は世を覆う、時利あらずして騅(項羽の愛馬)逝かず、騅逝かざるを如何せん、虞や虞や汝を如何せん

 

虞美人はその場で自殺を図り、項羽も最期の戦いと決めて戦いの中で自決し、虚しくも楚は降伏し、漢が天下を取るのでした。そして、虞美人が死んだ土からは、ひなしげの花(虞美人草)が咲いたそうな。アグネスチャンさんとは関係ありません。

 

以上、歴史書である「史記」や「漢書」に記されているエピソードなので多少は脚色されていると思いますが、僕はこんな項羽を2200年後に密かに応援していました。笑

 

皆さんにも世界史に興味を持っていただけたら嬉しいです。(名称に誤りがある場合、ご連絡いただけると幸いです)

 

RYOJI

 

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